1900年-1953年 東京出身。東京美術学校で藤島武二に師事。1926年卒業後、帝展に入選。1930年から1932年にかけてフランスに渡り、アカデミー・ランソンで学ぶ。1936年には挙国一致大勢の推進をはかる美術会の潮流に対抗して、猪熊弦一郎、小磯良平らと新制作派協会を結成。 1946年日本美術会を結成し、初代書記長に就任。1948年には日本共産党に入党するなど、戦後のプロレタリア美術会を牽引した。戦争画を量産した藤田嗣治の戦争責任を糾弾したことでも知られる。