1888年-1986年
京都府京都市生まれ。京都府立第二中を中退。画塾・鍾美会で学び、浅井忠主催の聖護院洋画研究所に入る。同期に安井曾太郎も学んでいた。
1908年 パリに滞在し、アカデミー・ジュリアンに通う
1909年 ルノワールの指導を受ける機会を得る
1914年 二科会の設立に関わる
1922年 春陽会の設立に参加
1925年 土田麦僊の招きで国画創作協会に合流。国画創作協会洋画部を設置
1935年 帝国美術会員(のちに日本芸術院会員)となる
1944年 帝室技芸員、東京美術学校の教授となる
1952年 大学教授を辞任し、渡欧しヴェネツィア・ビエンナーレの国際審査員を務める
文化勲章受章
1966年 逝去。(享年97)
少年時代より良きライバルであった安井曽太郎とともに洋画界の頂点を極め、「日本洋画壇の双璧」と称された。